『山本太郎詩集』、『黒田喜夫詩集』

 

山本太郎詩集 (現代詩文庫 第)

山本太郎詩集 (現代詩文庫 第)

 

 やたらと長い詩を書く人で内容は即興的。歩きながら頭に浮かんだ想念をそのまま詩にした感じで、行分けした「意識の流れ」といったところ。詩人自身が己を「からっぽ」であり「運動」であると規定していることから、まるで大きな穴のように外界を飲み込んで、それを希求の運動のもとに詩として定着させたように思える。からっぽであるからこそ飢えを持ち、何者かへ手を伸ばす。詩が面白いというよりは破れかぶれの運動を思わせるそのスタイルが面白い。

余談だがこの人には盗作騒動がある。あまりに運動的すぎたのか。

 

黒田喜夫詩集 (現代詩文庫 第)

黒田喜夫詩集 (現代詩文庫 第)

 

 ずいぶん難儀した。というのは、名作とされる「毒虫飼育」などはまだわかりやすいほうで、村落共同体をモチーフにして時代の狂気を描出しながらも、徐々に飢えや否定性を存在に引き入れて、這い進むようなその運動が激しさを増していくから。読み進めるほどに声は過激になりまさり、一読しただけでは思考を塗りつぶす轟音しか残らない。詩を行為する身振りの激しさに重きをおくならともかく、自分が求めるものとは隔たっている。ただ、こういう人がいるのは認識しておきたい。

「音楽家の友への五つの詩」中の「人形へのセレナーデ」はメルヘン風の小品で素晴らしかった。夜の部屋でチェロが人形に夜と世界のことをうたう。

それから言葉ではなくチェロはうたった

チェロは沈黙のあとの夜の唄を

夜と世界が見えるものの苦しみの唄を

人形よ きみの応えをきくまで

小さな箱のなかの

ガラスのガラスの人形の目に 

「ガラスのガラスの人形の目」というくり返しが奇跡だ。たぶん「青い青い人形の目」のような発想なのだろうが、ガラスにすることで否定性が物質の重みを持つ。「沈黙のあとの夜」「苦しみの唄」と困難をもってしか得られない唄を、「小さな箱のなかの」「ガラスのガラスの」目の人形にうたう。チェロと人形の間にある遠い隔たり、それでもうたうということ。