『吉原幸子詩集』
「わたしが みえなくなり/音だけになり/いのちと 死とが つり合ふとき/わたしは はじまる」(「港の宿で」) 近代詩を思わせる素朴な筆致で存在の喜びを、その裏にある死や孤独を描きながら、詩人自身の位置はその張り詰めた拮抗の中にあるように見える。成熟の過程でそうした視点を手に入れた氏は、詩の上で幼年を生き直し、詩で人生をトレースする。やがて愛や存在よりも消滅の方向へと傾いていき、解説などではセクシャリティによるところがあるとしているが、そう簡単に受け取っていいのかは正直よくわからない。
いま わたしの前に
一枚のまぶしい絵があって
どこかに 大きな間違ひがあることは
わかってゐるのに
それがどこなのか どうしてもわからない
消えろ 虹
(「虹」)
詩集『昼顔』において内面の世界で絶叫を響かせた後、痛みをそのままに世界や自己と一定の距離をとって向き合っていく。この詩人の詩は個人史に寄り添うところが大きく、どうもその距離の測り方が巧すぎるように感じられるのだけど、時折距離を踏み越えるような瞬間があってぞくりとさせられる。自作の解説を読むとそれぞれの詩に架空のモデルを想定しているとあり、ただしこれは自己へと向けたものとして、二人称的な呼びかけもそのように考えたほうがいいだろう。
母親の死を経験してからはほとんどの詩に死が透けて見える。見送らなければならないものの多さ、そして自らもその連なりの中にいることに呆然としつつ、存在の哀しみが平易な言葉で記される。「死とは」「生とは」みたいな詩って説教臭くなったりするものだけど、この人の場合はそれがあまり感じられなくてストレートに胸に入ってきた。そっけないまでの平易さが実感を確証しているというか、今生きているどうしようもなさの肯定がたしかにある。「わたしたちは孤独であり 孤独ではなかった」(「落雷」)