『高野喜久雄詩集』、『中江俊夫詩集』
無いことによって存在を示す神への接近、それがこの詩人の詩であるらしい。世界は沈黙のうちに閉じており、それらに近づき共に生まれるために、切実な言葉が必要とされる。言葉で己を問うことが世界と神に近づく道となるのだと。無いものに手を伸ばすこの運動が常に自身へと向かっているからこそ、独楽のような運動の論理が詩に要請される。論理が前に出るのは好き好きだが(神などはともかく)希求の切実さには惹かれた。
手を入れると 突然
手は手首から離れて
ゆらゆらと泳ぎ出した
まだあがらない君の屍体の方に向かって
(「手」)
「ある宇宙歴史家の話によると/昔 地球に国があった/国には日本とかアメリカと呼ばれる固型のものがあった/それと全く同じ/子供のなめる飴があった」(「昔々」) 適度に抽象化された言葉でどこか寓話や童話を思わせる詩は、世界から少し距離をとって、その世界を手のひらの上で検証しているかのようだ。やがて検証は言葉自体にも及び、言葉を羅列する形式の『語彙集』に結実する。これは単純な形式なだけに、読む人によってはとても危険な詩集に映るだろう。自身のものとしてこういう試みを引き受ける姿勢には驚かされる。