『石原吉郎詩集』
シベリア抑留の経験が前提にあるとはいえ、石原吉郎の詩は常に詩を書く現在にある。傷を受けた生が詩によってその後の生を証しする、ただその一点に賭けられていて、言葉は息苦しいまでに研ぎ澄まされる。生きることを、そしてそのための詩を求める時、張り詰めた言葉の空間に浮かび上がってくるのは存在そのものの姿だ。この詩が読まれる限り、詩人は何度でも我々の中に帰還する。
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は的確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
(「花であること」)
日本的というか和風を感じさせる詩が増えてくるとともに死の影が色濃くなっていく。晩年はやはり生活が破綻していたそうで、侍でも出てきそうな作風は精神の危機ゆえに必要とされたのかもしれない。この点、併録の鮎川信夫と吉本隆明の対談で言われているように嘘臭さを感じるところもあるのだけど、こうでもしないと耐えられない苦悩を思うとただひたすらに痛ましい。悲惨な体験と詩に使い潰された生とは何だったのだろうか。