『鈴木志郎康詩集』

 

鈴木志郎康詩集 (現代詩文庫 第 1期22)
 

 自己を言葉にする/言葉を自己にするという、互いに犯し犯される言葉との関係。これは追求すればするほど私的言語に接近するもので、鈴木志郎康の場合、言葉との間にそうした私的な関係を築くと同時に外部への、読者への伝達を固く信じている。ということは自慰行為を他者の視線に晒すというようなある種の芸術に正しく連なるわけで、併録の詩人論で奥様がどんなに詩人が「いやらしい」か愛情たっぷりにこき下ろすのもわかる気がする。「彼の最もいやらしいところは自分の姿を知らないのに自分自身の位置を正確に知っていることだ。」

 

続・鈴木志郎康詩集 (現代詩文庫)

続・鈴木志郎康詩集 (現代詩文庫)

 

 あ、離婚して再婚してる…(察し)。それはともかく、いや関係しているのかもしれないが、前衛的で押し付けがましくも感じられる詩から、日常を平易な言葉で描く詩へとがらりと作風を変える。ここで現れるのは見る/見られるの意識の変化で、露出狂的な姿勢から、実質をともなった他者の眼に見られているという認識への移行である。また、そうやって客体化された自他がただのモノでしかないというような存在の根源的な恐怖もつきまとう。外からの視線の下に、自分も人も本来の在り方をいかに覆い隠して生活しているのかが、あらためて問い直される。