『入沢康夫詩集』

 

入沢康夫詩集 (現代詩文庫 第 1期31)

入沢康夫詩集 (現代詩文庫 第 1期31)

 

 言葉はどこまでも言葉でしかなく、言葉によって思想が表現されるということには決定的なまやかしがある。とすれば、言葉の不実さを問い直す言葉の分野があってもいい。入沢康夫の問題意識はそうしたもので、スタイルを自在に変えて読者をはぐらかし続ける手際は、どこか手品師を思わせる。だが一見して軽はずみに思える言葉の向こうには、現実とは別の、言葉の上にだけ成り立つ虚の世界がたしかに息づいている。人間から独立した作り物の幻想空間。なんとなく、誰にも教えずにその中で遊んでいたい気がする。詩集を集めようかな。

 

続・入沢康夫詩集 (現代詩文庫)

続・入沢康夫詩集 (現代詩文庫)

 

 我々の身体を多くの分子が構成しているように、言語は起源を忘れ去られた複数の引用からなるシステムである。それを検証するかのごとく自身の詩に注釈を施し、誰が、どの作品が詩の裏側でざわめいているかを明かしてみせる(あるいは意識的に取り込む)。作品の根源への接近そのものを作品化する姿勢は個人史を描きもし、出身地である神話の地・出雲への地獄下りの様相を呈する。宮沢賢治ラフカディオ・ハーンらを道連れに、死者のざわめきの彼方、名付けえないその場所へ。なかなかに取っ付きにくいがその足取りには見るべきところが多い。

併録の「作品の廃墟へ―幻想的な作品についての妄想的な断想」を何度か読む。真に幻想的な作品が持つ幻惑(詩)、それは瞬間的なものであって、叙述の時間性と対立する。だが幻想を叙述する以上、語りとは不可分(なので往々にして散文形式をとる)で、特殊な形式が必要なのではないか。幻惑が語りを喰い破る…作品の常識的完結性を喰い破る形式。たとえば語りの断片化、中断など。

幻想的散文詩の(…)、そのあり得べき一つの特質は、それが一つの宇宙論、一つの神話体系(と言っても既製のものではなく)を暗示(あるいは明示)しており、そのことから、その作品が自らのうちに閉鎖されておらず、世界全体とアナロジックな交感状態にあるのを、陰に陽に感じさせることであろう。