『田村隆一詩集』
戦後詩の主人公と言っても過言ではない田村隆一。その出発点となった『四千の日と夜』はまさしく戦後詩のマニフェストの観を呈し、たとえば「部屋のない窓」のように言葉によってしか現れない観念的なイメージを使って、どこを抜き出しても鮮烈な、強い語調で歌う。この姿勢を、戦後の荒れ地で言葉以外の何をも持たずに出発を告げたというわかりやすいストーリーに落としこんでもいい(ちなみに本書が現代詩文庫の最初の一冊)。だが、やはり青いまでに若々しい言葉の運動に身を任せるのが一番だろう。
(「腐刻画」について)この詩は、ぼくにとって最初の詩集の原型であると同時に、この詩によって、ぼくははじめて自分の「詩」を発見したともいえる。この詩にあらわれている「彼」と「私」の運命は、その后の詩集によって語られているはずだ。なぜ、「彼」という三人称があらわれたのか、ぼくには、「私」の眼以外の眼が必要だったのかもしれない。
かつて時代精神を鋭く歌った詩人は、それを内面化しつつも主題的には退けて、個人の経験の場に夢を見出そうとする。事物への接近、より具体的なものへ。
眼に見えないものは
存在しないのだ
五感が命じるままに
ためしに歩いて行ってごらん
針の穴のように小さくなったきみの瞳孔が
きみの沈黙をまるごと受けいれてくれる
どこにもない場所なのだ
(「ある種類の瞳孔」)
これは時代精神という全体性への批判でもある。また、年齢を重ねて来し方を振り返ることも多くなった。書法の面では翻訳文からの影響があるように思う。
これは私の詩的経験主義である。簡単に一言でいえば、夢を見るのさえ経験を基礎とするのに、まして詩を作るのにはなおさらである、ということである。今日の人々の大きな欠点は経験を基礎としない詩を作りたがることである……。
「モナッシュ大学日本語科に留学する日向君に」が好きだ。かっこいいとはこういうことかと瞠目する。
はじめ
おれは抱腹絶倒したな
きみが濠州へ日本語を習いに行くと云うものだから
しかし 日本語を外気にさらして
日本を考えてみる 鯨と羊の
世界を感じてみるのには絶好の機会かもしれん
いま南半球は秋に入る
では
もはや詩と一体化して、語ることが全て詩になるといった趣さえある。世間に毒づき、喪失を感じ、昔語りで時を過ごし……と、やっていることは完全に年寄りの繰り言なのだが、本人は自覚して晩節を汚しているのだし(この灰の中からダイヤモンドを探せとか言ってる)、詩人の死ぬ身の一踊りには同じく詩を書く人間として神妙にならざるを得ない。ハードボイルドに生きて書いたのだから、のたうち回って泥にまみれて死ぬのは必然なのだ。