アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは…』、仁科邦男『犬の伊勢参り』
供述によるとペレイラは… (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
- 作者: アントニオタブッキ,Antonio Tabucchi,須賀敦子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2000/08
- メディア: 新書
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不穏な情勢下のリスボンで記者として身を立てる人物の「供述」の形で物語は進む。初めてのタブッキで期待して読んだがいまいち乗れず、ただ良い作品ではあるので自分のほうに余裕がないのだろう。他の本も探してみたい。
「犬の伊勢参り」の事例を資料から追っていくことで、伊勢参りの文化や神宮の制度、触穢思想にまで話が及ぶのは面白かった。結局、犬が伊勢参りするという物語が人々の間に共有されていて、伊勢参りについていった犬、あるいはそれらしき犬を送り出したり導いたりしたというのが真相らしいが、それを支える信仰や善意や打算に思いを馳せると昔年の心性がいじらしくなってくる。人と犬との大らかな関係を透かし見ることができる楽しいテーマだった。
『安藤元雄詩集』、『大野新詩集』
内部世界の風景に目を凝らすこと。時とともに砂や水のように蓄積されていくそれは自己の枠から外へと溢れ出し、歩みにつれて軌跡を作る。それがこの詩人の詩なのかもしれない…などと考えながら読んでいたが、いまいちぴんとこなかった。詩自体は端正だと思う。
結核体験が影を落としているということで、重苦しい肉体感覚と死がつきまとう。家族を描くにしても周辺の人を描くにしても視線は常に死に引き寄せられ、息子を含むいくつかの死を見届けることになり、その度に詩の言葉は研ぎ澄まされていく。俳句的でさえある言葉には惹かれるもののこれを裏で支える精神を思うと痛ましくつらい。家族・友人思いな人柄が窺えるだけに余計に。併録の随筆は後年に書かれたもののようで、こちらは枯れた抒情が味わい深かった。
詩を暗喩で語ろうとし極度に詩のことばをそぎおとすのは、みずからの私性を一挙に抽象化しようとする願望とも写る。
(青木はるみ「死を確かめ、たしかめては生へ出ていくひと」)
『藤井貞和詩集』
詩人と書いてうたびとと読むのがよさそうな。独特のリズムにのせて書かれる詩の中に、過去や現在、記憶や幻想、様々な風俗や知識を取り入れて、詩が総合的な「うた」でもあることを教えてくれる。そして、うたをうたううたびとであるということは、それが一種の芸能へとつながっていくのだということも。芸能の発生に立ち戻って書かれる詩は、狭い枠を飛び越えて、魂に関わるものになっていくのだろう。
うたびと、もしくは巫者はその身に別のものを呼び込むのであって、「物狂い」でもある。学者としての立場や社会的な関心も現れてきて詩は混迷を極める。こうして読んでいくとちぐはぐな印象があるのだけど、それが物に狂わされたことによるのか、単に編集の問題なのかはよくわからない。
ともだちのともだちも
ともだちのともだちのともだちも
みんなで振るんだ
キンゾクバッ
キンゾクバッ
(「寝物語」)
春日武彦『奇妙な情熱にかられて』、中沢新一『アースダイバー』
奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集 (集英社新書)
- 作者: 春日武彦
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/12
- メディア: 新書
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再読。人が世界にリアリティを与えるやり方、生きている手応えを感じるための、だが他人からすればささやかで奇妙にも見えるそれを徒然に語る。「なぜか気になるもの」を追求すると硬直化した世界の皮膜がぺらりとめくれて実相が立ち上がってくるという、そんな例が集められていて、読む度に胸を打たれる。斜に構えているようでとてつもない切実さを持つ一冊だと思う。
シャーマン的な想像力による東京をネタにした詩的作品。縄文期の地形図を現在に重ねて東京の町がどのような基盤の上に成り立っているのか説いていくのだけど、その方法はともかくとして、いろんな伝説や事実や幻想を注ぎ込んで語る下りは完全に俺妄想in東京という感じで、これ書くのすごい楽しかったんだろうな。なんでもかんでも「無意識」に辿り着くのに脱力しつつ、東京が精神と風土と歴史のアマルガムなのはよくわかる。なんだか漫画を読むように読まされてしまった。
『辻征夫詩集』
ユーモラスでシニカルで、噛んで含めるような優しい語り口。この詩人が感じている夢と現実の混淆した世界観を丁寧に表現しようと努めていて、自分などはとにかくその専心する態度が印象に残った。よくよく読んでいくとシビアな生を送っている節があり、それをこんなに楽しい詩に加工するのは並大抵のものではないと思う。曲芸師的な手業というか。
空地の
草と共棲する
錆びた 針金が
めったやたらに
からみついて
まるで驚愕と
いう字みたいな
かんじになって
しんとしている
(「星」)
引用や句などを枕に、というか呼び水にして展開されるそれは、表向きは抒情詩として描かれるし詩人自身もそう考えているようではあるけれど、単に「抒情」で片付けられるものではないと思う。もっと巨大な未分の領域があって、引用などの媒体を経てそこから引き上げたものが詩人により詩に仕上げられる。そして、そういった詩の操作と同じように、詩人も己自身が媒体であることを意識していて、一種のフィルターに徹することを選んでいる。自己を断念してフィルターに徹するところにこの詩人の強さがある。
岡井隆『詩歌の近代』、『吉行理恵詩集』
詩や短歌や俳句、そのすべてを「詩歌」として包括的に論じる。ただ著者は歌人であって、音数律や写実といったタームを用いた詩の読みはやや瑣末。やはり定形を語るほうに本領が窺えるし、「壇」についてや、重みに対する軽み(ライト・ヴァースや俗謡や狂歌など)については、特に詩の読者である自分には新鮮だった。時代とジャンルを越えて見渡す視野の広さは見習いたい。
日本の詩歌界の日本的風土とは(…)、それは嬉しいほど因習的で、いったん名を成してしまえば永久に詩人であり歌人を通すことができる。「アルコールと麻薬」の中に身をもち崩すことを許さない、ありがたい制度である。
この詩人が多用するリフレインは近代詩の影響を受けてのものなのだろうが、それによってもたらされるのは音楽性であるとともに、ある場所からスタートして同じ場所に戻るという堂々巡りの感覚でもある。そのため、あまり数の多くないモチーフを使うのと相まって、狭い部屋に閉じこめられて強迫的に一人遊びをしているような、叫ぶのを必死にこらえているような詩の世界が生まれる。
電燈をつけ忘れられた暗闇で
新聞紙の
飛行機を折っていたときに
僕は
叫んでしまいました
(「月見草」)
岩佐なを『しましまの』、入沢康夫『詩にかかわる』
後書きで言われているようにどんどんゆるくなってきて、異形は異形のままに、普通切り捨てるような表現もなるべく生かされていると感じる。たとえば括弧による補足とか、別にそんなの説明せんでも…みたいな記述が挟まれて、押し拡げつつ細部を取りこぼさない。だらしないと見るか優しいと見るかで評価は変わってきそうだ。
散文集成。拾遺的な印象は否めないが面白いトピックスが拾える。自分が気になったのは、入沢氏の名作「失題詩篇」が元は16篇の連作中のひとつだったこと、詩への信頼とその原点にある感動に度々言及していること、本文決定(校訂)の困難さについてだろうか。それとネルヴァルの死んだ場所についてはこれ以上ないのではというくらい詳細で、現場を描いたものとして残っている5つの図版はありがたかった。こうして見てみると、原点の意識と追求という姿勢が窺える。